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その3『『西郷隆盛』==子供のための伝記== ※小学生必読 (^o^)/(親はこの本を与えて間違い無し)(^o^)◆武者小路実篤は、著書『西郷隆盛』で、 『西郷隆盛がいなかったら、明治維新は、よほど暗いものになっていただろう。 彼の居る所は、なんとなく落ち着て、明るいのだ。 それは、彼の心、いつも余裕があって、生死を度外視し、利己心が無く、絶えず大きな目で物を見、こせこせせず、陰険なところが無かったからである。』 と、述べています。 ◆西郷には『国民の為に』という思いがいつもありました。 ◆岩倉具視を正使に、政府の主だった者が、欧米視察旅に出かけてる間、 福沢諭吉は、留守内閣を預かって、苦心する西郷の姿を見守るうちに、西郷を敬い慕う様になりました。 【大重要】 西郷の居た2年間の政治は、天皇様を民衆の手の届かない所に奉るのではなく、ご一緒に語り合えるようなまつりごとだったのです。 福沢は、著書『丁丑(ていちゅう)公論』で、 『西郷が留守内閣を預かった2年間は、国民は悦服して、不平がましいことも無く、知識人らは言論の自由を享受して、自由闊達な議論を発表して、最も楽しい期間であった』 と述べています。 ◆明治5年、中国、朝鮮の情勢が不穏でしたので、別府晋介や池上四郎らを派遣して、内情を調べさせます。 明治6年になると、『韓国に使いを送り、話し合おう』という『遣韓使節論』が起こります。 当時、韓国は鎖国しており、開国した日本の『国書』を受け付けず、使者をののしったりしました。 その為、日本では、板垣退助らが『征韓論』を唱え始めます。 西郷は『征韓論者』のように思っている人もいるようですが、『西郷は、決して征韓論者ではありません』でした。 西郷は、常に『出来れば、いくさは避けよう』という平和主義者でした。 長州征伐の時も、江戸城引き渡しの時もそうでした。 彰義隊とのいくさでも最後まで『勝先生に、お任せしもうそう』と言っていたのですが、三条実美が大村益次郎の『彰義隊制圧論』を支持したので、司令官を降りたぐらいです。 日本は、天皇様の大御心のような慈悲ある道義国家を目指さねばならない、そう考えていたのです。 そんな西郷ですから、『韓国の人の誤解を解きもんそ』と、いくさを避ける為に、自分が行って話し合いたいと願ったのでした。 ところが、ヨーロッパから帰った大久保利通は、 『西郷さんが行って殺されたら、いくさになる。今は国内の政治を充実させるべきだ』 と言って反対をしたのでした。 ◆西郷も大久保も自分の欲や利益を考える人ではありませんでした。 だだ、2人の国家観は違っていました。 『欧米は力を誇示して、弱い国を植民地にしていて、野蛮である。日本は、自分の国に誇りをもって、世界に対峙していくべき』 という西郷に対して、大久保は、 『欧米を見習って、一日も早く追いつきたい』 という考えでした。 ◆西郷にとって、日本が目指すべき文明とは、西欧の模倣ではなく、日本古来の道に根ざした真の文明ではなくてはならなかったのです。 (独り言)タスマニア・アボリジニを虐殺し、皆殺しにしたのも西欧人でした。 ◆西郷は、農村の子弟の為、吉野に「開墾社」をつくり、昼は田畑を耕し、夜は学問を学ぶ道場としました。 ◆勝海舟は、西郷を偲んで、和歌を詠みました。 ぬれ衣を ほそうともせず こどもらの なすがままに 果てし君(きみ)かな ◆大学南校(後の旧東京大学)教授・ウィリアム・グリフィス博士は、凱旋部隊の様子を述べています。 『西南戦争の凱旋部隊が東京に帰って来たが、戦争に勝ったというのに、将兵はみな泣いて行進している。 万歳の声ひとつ唱えず、黙々として、うつむき、惨めな有様である。まことに不思議に思った。 ・・・明治天皇が『万歳は唱えるな』というお達しをしたというウワサだった・・・』 ◆西郷の死を聞かれた天皇様は、深く悲しみ落胆されました。 『明治天皇紀』(宮内省編集)によると、西南戦争が終わったばかりのある日、皇后さまや女官たちに『西郷隆盛』という題で、歌を詠むようにおおせになりました。 西郷を追悼する歌会を催されたのです。 ◆その時、『西郷をそしらないで詠むように。この度の事で、これまでの西郷の大功を忘れる事があってはならぬ』と言われたとあります。 こんな事になって、どんなに心を痛められた事でしょう。 『国家の柱と云うべき臣を失った。このような悲劇は2度と起こしてはならない』と政に強い自覚を抱かれたといいます。その4に続く

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その3『『西郷隆盛』==子供のための伝記== ※小学生必読 (^o^)/(親はこの本を与えて間違い無し)(^o^)◆武者小路実篤は、著書『西郷隆盛』で、 『西郷隆盛がいなかったら、明治維新は、よほど暗いものになっていただろう。 彼の居る所は、なんとなく落ち着て、明るいのだ。 それは、彼の心、いつも余裕があって、生死を度外視し、利己心が無く、絶えず大きな目で物を見、こせこせせず、陰険なところが無かったからである。』 と、述べています。 ◆西郷には『国民の為に』という思いがいつもありました。 ◆岩倉具視を正使に、政府の主だった者が、欧米視察旅に出かけてる間、 福沢諭吉は、留守内閣を預かって、苦心する西郷の姿を見守るうちに、西郷を敬い慕う様になりました。 【大重要】 西郷の居た2年間の政治は、天皇様を民衆の手の届かない所に奉るのではなく、ご一緒に語り合えるようなまつりごとだったのです。 福沢は、著書『丁丑(ていちゅう)公論』で、 『西郷が留守内閣を預かった2年間は、国民は悦服して、不平がましいことも無く、知識人らは言論の自由を享受して、自由闊達な議論を発表して、最も楽しい期間であった』 と述べています。 ◆明治5年、中国、朝鮮の情勢が不穏でしたので、別府晋介や池上四郎らを派遣して、内情を調べさせます。 明治6年になると、『韓国に使いを送り、話し合おう』という『遣韓使節論』が起こります。 当時、韓国は鎖国しており、開国した日本の『国書』を受け付けず、使者をののしったりしました。 その為、日本では、板垣退助らが『征韓論』を唱え始めます。 西郷は『征韓論者』のように思っている人もいるようですが、『西郷は、決して征韓論者ではありません』でした。 西郷は、常に『出来れば、いくさは避けよう』という平和主義者でした。 長州征伐の時も、江戸城引き渡しの時もそうでした。 彰義隊とのいくさでも最後まで『勝先生に、お任せしもうそう』と言っていたのですが、三条実美が大村益次郎の『彰義隊制圧論』を支持したので、司令官を降りたぐらいです。 日本は、天皇様の大御心のような慈悲ある道義国家を目指さねばならない、そう考えていたのです。 そんな西郷ですから、『韓国の人の誤解を解きもんそ』と、いくさを避ける為に、自分が行って話し合いたいと願ったのでした。 ところが、ヨーロッパから帰った大久保利通は、 『西郷さんが行って殺されたら、いくさになる。今は国内の政治を充実させるべきだ』 と言って反対をしたのでした。 ◆西郷も大久保も自分の欲や利益を考える人ではありませんでした。 だだ、2人の国家観は違っていました。 『欧米は力を誇示して、弱い国を植民地にしていて、野蛮である。日本は、自分の国に誇りをもって、世界に対峙していくべき』 という西郷に対して、大久保は、 『欧米を見習って、一日も早く追いつきたい』 という考えでした。 ◆西郷にとって、日本が目指すべき文明とは、西欧の模倣ではなく、日本古来の道に根ざした真の文明ではなくてはならなかったのです。 (独り言)タスマニア・アボリジニを虐殺し、皆殺しにしたのも西欧人でした。 ◆西郷は、農村の子弟の為、吉野に「開墾社」をつくり、昼は田畑を耕し、夜は学問を学ぶ道場としました。 ◆勝海舟は、西郷を偲んで、和歌を詠みました。 ぬれ衣を ほそうともせず こどもらの なすがままに 果てし君(きみ)かな ◆大学南校(後の旧東京大学)教授・ウィリアム・グリフィス博士は、凱旋部隊の様子を述べています。 『西南戦争の凱旋部隊が東京に帰って来たが、戦争に勝ったというのに、将兵はみな泣いて行進している。 万歳の声ひとつ唱えず、黙々として、うつむき、惨めな有様である。まことに不思議に思った。 ・・・明治天皇が『万歳は唱えるな』というお達しをしたというウワサだった・・・』 ◆西郷の死を聞かれた天皇様は、深く悲しみ落胆されました。 『明治天皇紀』(宮内省編集)によると、西南戦争が終わったばかりのある日、皇后さまや女官たちに『西郷隆盛』という題で、歌を詠むようにおおせになりました。 西郷を追悼する歌会を催されたのです。 ◆その時、『西郷をそしらないで詠むように。この度の事で、これまでの西郷の大功を忘れる事があってはならぬ』と言われたとあります。 こんな事になって、どんなに心を痛められた事でしょう。 『国家の柱と云うべき臣を失った。このような悲劇は2度と起こしてはならない』と政に強い自覚を抱かれたといいます。その4に続く

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