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その2 『『西郷隆盛』==子供のための伝記== ※小学生必読 (^o^)/(親はこの本を与えて間違い無し)(^o^) ◆慶応2年(1866)6月、イギリスのパークス公使が、薩摩を訪問。 薩英戦争の後、お互いの強さを認め合って、親しく交際するようになっていた。 パークスは、協力を申し出ますが、西郷は、 『日本の事は、日本で解決します』 と、他国に頼らない姿勢を貫きます。 (独り言)もし、イギリスの力を借りていたら、西日本はイギリスの植民地、東日本はフランスの植民地になっていただろう。 ◆≪江戸城無血開城≫ 江戸城総攻撃の3月15日を目前にした13日、14日に、西郷・勝の会談となります。 桂小五郎らは、慶喜の助命に最後まで反対しましたが、 『おいの首をはねてから反対しなされ』 と西郷が言うと、ついに、桂が折れ、一滴の血も流さず、江戸城明け渡しとなりました。 後に、勝は、この時の事を、 『西郷は戦に勝ったからと、偉ぶるところはなく、俺を1人で迎えてくれて、武器も外させず、丁重に迎え入れ、しかも、約束は必ず実行してくれた。 江戸城の明け渡しが済んでも、江戸城内では、幕府兵がいつ反撃に出るか分からない状態であったが、 西郷は『勝先生にお任せしたのだから、勝先生が修めて下さるだろう』と言って、さっさと江戸を去ってしまった。 あの誠実と度量の大きさは、まねできん。無血開城は、相手が西郷だったから出来た』と語っています。 ◆西郷も同行していると聞いた忠篤(ただずみ)が、宿に挨拶に来た時も、西郷は『酒井のお殿様が!』と驚きながらも、『お供の方々にも御無礼にない様に』と周りをいましめつつ、実に丁寧に忠篤を迎えました。 忠篤を上座に、自分は下座に平伏して、うやうやしくもてなしたのです。 忠篤が帰った後、周りの者が『先生、あれでは、どちらが勝者か分からんでごわした』と口を尖らせましたら、 西郷は『いくさ負けて降伏しなさったのだから、辛いお立場なのじゃ。あのくらい丁寧にして、ちょうどよかとです』とニッコリしたと言います。 そして、『幕府の譜代大名である庄内藩が、幕府の為に最後まで戦ったのは、立派でごわはんか』と言ったのでした。 ◆【大重要】 幕府軍の武士たちの規律も良く、民たちの商いや畑仕事も、いつもの様に行う事が出来ました。 そして、この様な指示は、すべて西郷から出されていたと後で知ります。 お百姓たちは、『戦争に負けていったいどうなるのだろう』と心配していたのですが、西郷は、『百姓は、国の宝だ』と言って、前より年貢を安くしました。 ◆【大重要】 ある日、明治天皇が、馬場で馬の稽古をしておられた時の事です。 馬から落ちて思わず、『痛い』と言われてしまった。 普通、飛んで行ってお起こしし、『お怪我はございませんか』と案ずるところですが、ご一緒に馬を走らせていた西郷は、きっぱりと、 『痛いなどという言葉を、どのような場合にも、男が申してはなりませぬ』 と申し上げ、立ち上がられるのを、お持ちしていたのでした。 これ以来、天皇様は、生涯、どんなに痛くても『痛い』という言葉を言われませんでした。 (後年、西園寺公望に『西郷からこう教えられたよ』と、おうちあけになられています) ◆明治6年4月29日のことです。 天皇様は、自ら近衛兵を率いて、千葉県習志野で演習を行われました。 夜には嵐になり、大雨でお休みになる露営の天幕からは雨が漏るほどでした。 翌朝、お供の者が、『昨夜は、お休みになられましたでしょうか?』とお尋ねすると、 『雨は平気だったが、時々、大入道が顔を出すので、おかしかったよ』 と、おっしゃいました。 大入道とは西郷の事でした。 その夜、西郷は『陛下の御身に何かあっては』と、陸軍大将の身で、嵐の中を天幕の外に立ち通して、番兵の役を務めていたのです。 そして、時々、天幕の中のご様子をうかがっていたのでした。 ◆西郷が一番嫌ったのは、いばる人間とぜいたくをする人間でした。 『上に立つ者は、己を慎み、行いを正しく、あんなに働いて、と人々に気の毒に思われるようでなくてはいけない。それなのに、高官が贅沢にふけるのは、身を捧げて死んでいった同志に対して、申し訳ないことだ』 と、述べています。 その3に続く

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その2 『『西郷隆盛』==子供のための伝記== ※小学生必読 (^o^)/(親はこの本を与えて間違い無し)(^o^) ◆慶応2年(1866)6月、イギリスのパークス公使が、薩摩を訪問。 薩英戦争の後、お互いの強さを認め合って、親しく交際するようになっていた。 パークスは、協力を申し出ますが、西郷は、 『日本の事は、日本で解決します』 と、他国に頼らない姿勢を貫きます。 (独り言)もし、イギリスの力を借りていたら、西日本はイギリスの植民地、東日本はフランスの植民地になっていただろう。 ◆≪江戸城無血開城≫ 江戸城総攻撃の3月15日を目前にした13日、14日に、西郷・勝の会談となります。 桂小五郎らは、慶喜の助命に最後まで反対しましたが、 『おいの首をはねてから反対しなされ』 と西郷が言うと、ついに、桂が折れ、一滴の血も流さず、江戸城明け渡しとなりました。 後に、勝は、この時の事を、 『西郷は戦に勝ったからと、偉ぶるところはなく、俺を1人で迎えてくれて、武器も外させず、丁重に迎え入れ、しかも、約束は必ず実行してくれた。 江戸城の明け渡しが済んでも、江戸城内では、幕府兵がいつ反撃に出るか分からない状態であったが、 西郷は『勝先生にお任せしたのだから、勝先生が修めて下さるだろう』と言って、さっさと江戸を去ってしまった。 あの誠実と度量の大きさは、まねできん。無血開城は、相手が西郷だったから出来た』と語っています。 ◆西郷も同行していると聞いた忠篤(ただずみ)が、宿に挨拶に来た時も、西郷は『酒井のお殿様が!』と驚きながらも、『お供の方々にも御無礼にない様に』と周りをいましめつつ、実に丁寧に忠篤を迎えました。 忠篤を上座に、自分は下座に平伏して、うやうやしくもてなしたのです。 忠篤が帰った後、周りの者が『先生、あれでは、どちらが勝者か分からんでごわした』と口を尖らせましたら、 西郷は『いくさ負けて降伏しなさったのだから、辛いお立場なのじゃ。あのくらい丁寧にして、ちょうどよかとです』とニッコリしたと言います。 そして、『幕府の譜代大名である庄内藩が、幕府の為に最後まで戦ったのは、立派でごわはんか』と言ったのでした。 ◆【大重要】 幕府軍の武士たちの規律も良く、民たちの商いや畑仕事も、いつもの様に行う事が出来ました。 そして、この様な指示は、すべて西郷から出されていたと後で知ります。 お百姓たちは、『戦争に負けていったいどうなるのだろう』と心配していたのですが、西郷は、『百姓は、国の宝だ』と言って、前より年貢を安くしました。 ◆【大重要】 ある日、明治天皇が、馬場で馬の稽古をしておられた時の事です。 馬から落ちて思わず、『痛い』と言われてしまった。 普通、飛んで行ってお起こしし、『お怪我はございませんか』と案ずるところですが、ご一緒に馬を走らせていた西郷は、きっぱりと、 『痛いなどという言葉を、どのような場合にも、男が申してはなりませぬ』 と申し上げ、立ち上がられるのを、お持ちしていたのでした。 これ以来、天皇様は、生涯、どんなに痛くても『痛い』という言葉を言われませんでした。 (後年、西園寺公望に『西郷からこう教えられたよ』と、おうちあけになられています) ◆明治6年4月29日のことです。 天皇様は、自ら近衛兵を率いて、千葉県習志野で演習を行われました。 夜には嵐になり、大雨でお休みになる露営の天幕からは雨が漏るほどでした。 翌朝、お供の者が、『昨夜は、お休みになられましたでしょうか?』とお尋ねすると、 『雨は平気だったが、時々、大入道が顔を出すので、おかしかったよ』 と、おっしゃいました。 大入道とは西郷の事でした。 その夜、西郷は『陛下の御身に何かあっては』と、陸軍大将の身で、嵐の中を天幕の外に立ち通して、番兵の役を務めていたのです。 そして、時々、天幕の中のご様子をうかがっていたのでした。 ◆西郷が一番嫌ったのは、いばる人間とぜいたくをする人間でした。 『上に立つ者は、己を慎み、行いを正しく、あんなに働いて、と人々に気の毒に思われるようでなくてはいけない。それなのに、高官が贅沢にふけるのは、身を捧げて死んでいった同志に対して、申し訳ないことだ』 と、述べています。 その3に続く

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